「診断士の独立開業日記」vol.7
『目指せプロコン! 駆け出し診断士のはじめの一歩』第1回

田中聡子(中小企業診断士)

秋田舞美(中小企業診断士)のブログ皆様、はじめまして。独立診断士1年生の、田中聡子です。今月から6ヵ月間、このコーナーを担当させていただくことになりました。

とはいえ、今年1月末に独立したばかりで、プロコンにはほど遠い状況です。この日記の更新とともに、少しずつでも成長していきたいな、と思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

 

診断士の勉強を始めた頃、まさか自分が独立の道を選ぶとは、夢にも思っていませんでした。ですが、勉強を続けるうちに独立への興味がジワジワと…。そんな気持ちの揺れ動く様子も、少しずつ書いていきます。「こんなに悩んだの?」と笑ったり、「そうなんだ」と共感しながら読んでいただける箇所が少しでもあれば、嬉しいです。今回は、私が診断士を目指したきっかけから、試験に合格するまでを振り返ります。

私が初めて診断士を目指したのは、平成15年でした。勤めていた百貨店で人事異動があり、終電もしばしばだった環境が変わって、20時や21時に自宅にいられるようになりました。初めは、のんびりした暮らしを楽しんでいたのですが、徐々に「このままでいいのかな。この先、自分はどうしたいのだろう…」という気持ちが起きてきました。

 ちょうどその頃、仕事上で悩みを抱えていたこともあり、自分が今後も働き続けるうえで、多面的に役立つことを学習しよう、と診断士受験校に通うことを決めました。どこの受験校のパンフレットにも、「最短1年合格」とありましたので、もちろんストレート合格を目指しました。両親には、「会社を辞めないために、1年後には中小企業診断士っていうのになる」と宣言し、主人にも「1年だけ…」と話して、土日に学校へ通うことにしました。合格は結局平成19年でしたから、ほとんど詐欺みたいなものですよね(笑)。

受験生時代は期間が長かったので、さまざまなことがありました。いちばん驚いたのは、通っていた受験校が2年目になくなってしまったことです。テキストの配本が遅れたり、講義会場が毎週変わったり…。友人とは、「お勉強で苦労がしたいよね…」と嘆きながら通った記憶があります。

また、「勉強を始められた分だけ、続けられる分だけ幸せなんだな」とも、思っていました。というのも、受験勉強を始めた年、父が長期治療で入院することになったのです。両親や主人とも相談のうえ、2ヵ月間会社と学校を休み、看病のために帰省しました。このとき感じたのは、「診断士の勉強を始めていてよかった」ということでした。一度始めてしまえば、止めるのにも決断が必要です。でも、できるときに始めなければ、できない環境は後からいくらでも起こってしまうのだな、と強く感じました。

もちろん、再受験を繰り返すうちに、「自分は一生受からないのではないだろうか」、「こんなことをしていても、結局ムダになってしまうのではないか」と悩んだことも、数多くあります。それでも止めなかったのは、自分の時間を割いてまで、教えてくれたり励ましてくれたりした先生方や友人がいたからです。「合格したら、自分もこうして周りに役立つ人になりたい」と、ずっとそう思っていました。

 通っていた受験校はなくなってしまいましたが、そこの講師だった方が、手弁当で2次試験対策の講義をしてくださることになりました。これには、本当に感謝しています。先生の事務所で、4〜6人がテーブルを囲んで事例を解きます。先生方が独立診断士として仕事をしている様を目の当たりにし、「いつか、自分も独立して仕事ができたらいいなぁ」という気持ちが少しずつ強くなっていったように思います。でも一方で、安定した会社を辞める勇気も、自力で仕事ができるようになる自信もまったくなく、独立は憧れのままで終わるとも思っていました。

こんな受験生活を送っていた平成19年、ようやく2次試験に合格することができました。合格したらしたかったことの1つに、「ふぞろいな合格答案プロジェクト」への参加がありました。同じ受験校の親しい友人が、受験生として前年の執筆に参加していたのです。

「よかったら、私も次回の執筆に参加したいのですが…」。この一言がまた、次々と新しいことにつながっていくことになります。

平成20年の1次試験会場前で、書籍PRのビラ配り
平成20年の1次試験会場前で、書籍PRのビラ配り



中小企業診断士 田中聡子(たなか さとこ) プロフィール

田中聡子

1971年生まれ。青山学院大学経済学部卒業後、百貨店に入社し、販売や仕入等に携わる。

2008年中小企業診断士登録。2年間企業内診断士として活動した後、2010年1月に独立。現在は、百貨店での経験を活かし、接客やコミュニケーションに関する講師業や執筆活動などに従事している。